金 - 10月 10, 2008ゴール裏と政治の関係(2007.06)アーカイヴ#92。ウルトラス関連シリーズの4回目。まだもう少し続きます。 下の『ビジネス化の波がフーリガンを追い詰める』で、紙幅の関係で触れられなかったのが、ウルトラス/フーリガンと政治の関係である。
70年代にウルトラス/フーリガンのムーブメントが生まれた当時から、ヨーロッパのゴール裏は過激な政治運動や団体とつながりを持ち続けてきた。当時のゴール裏は極右と極左に二分されていたが、これは政治状況がそうだったからだ。60年代いっぱいで“政治の季節”が終わってしまった日本とは異なり、ヨーロッパでは70年代に入っても若者文化やカウンターカルチャーが、政治と密接に結びついていた。 イタリアでは少なくとも90年代初頭まで、ほとんどのゴール裏が「赤」(極左)と「黒」(極右)にはっきりと色分けされていた。「赤いクルヴァ」の代表は、トリノ、ミラン、ジェノア、フィオレンティーナ、リヴォルノ、ローマなど、「黒いクルヴァ」の代表はヴェローナ、アタランタ、インテル、ユヴェントス、サンプドリア、ラツィオなど。 しかしこの構図は、“政治の季節”がヨーロッパでも終わりを告げ、ベルリンの壁崩壊によってコミュニズムが歴史的役割を終えて極左の政治運動が変質を余儀なくされた90年代初頭以降、徐々に変質していく。実際の政治運動と同様、ゴール裏でも極左が勢力を失い、「赤いクルヴァ」の多くは政治色を薄めるか(例えばフィオレンティーナ、ミラン)、あるいはその内部で勢力を強めてきた極右勢力に乗っ取られる形で黒く染まっていった(ローマ)。2007年現在、イタリアのゴール裏はほとんど「黒」(極右)と「白」(ノンポリ)の二色に塗り分けられているといえる。 ヨーロッパの若者文化から、左翼的な政治運動とのつながりが消えてしまったわけではない。しかし90年代後半以降の左翼運動は、反グローバリズム、反核、エコロジー、ゲイカルチャーといった方面に向かっており、ゴール裏の(というかサッカーの)マッチョで男根主義的なカルチャーとは相容れない、むしろ対極に位置する文化圏を形成している。 一方で極右の方は、ネオナチやネオファシズムが民族主義、土着主義と結びつく形で、人種差別、反移民、反ユダヤ、文化的純血主義といった従来の主張をますます強めており、それどころか旧東欧諸国で広まっている排他的民族主義に見られるように、かつての極左の武闘派勢力までも糾合してしまったように見える。 そして、この極右政治勢力とゴール裏とのつながりは、イタリアに限らずヨーロッパ全域で広く見られる現象となっている。 ゴール裏で暴徒化する「フーリガン」の多くは、ヨーロッパの格差社会の中・下層に位置するワーキングクラスであり、徒党を組んで暴力を働くという行為が、そうした不満や困難のひとつのはけ口になっている、という話は別の原稿でも触れた通り。 ヨーロッパにおけるウルトラス/フーリガンのムーブメントを研究しているイタリアの社会学者ヴァレリオ・マルキは、彼らを特徴づける要素として、「社会に対する不満や失望」、「強烈なテリトリー意識」、「社会的承認に対する強い欲求」という3つを挙げている。社会的な不満や困難を抱えている層が、ゴール裏というテリトリーを治外法権化して自らの聖域とし、マフラーやTシャツといった所属を示すアイテム、そして示威的な暴力行為を通じて社会に存在を誇示する、という構図である。 「社会では落ちこぼれ、スタジアムでは英雄」(マルキ)という、その後半部分が彼らのアイデンティティになっていると同時に、その前半部分には、政治のつけ入る隙がある。政治との接点はまさにそこにある、というのが、フーリガン研究における共通した視点になっている。 あらゆる政治活動の原動力が、社会に対する不満や異議にあることは論を俟たないが、それだけでは、なぜ極右なのかという説明はつけにくい。接点のひとつとして考えられるのは、極右が主張する排他的な民族主義は、都市・地域に根ざし、それを代表していることをアイデンティティの根幹としているサッカークラブ(名称にほぼ必ず都市名が入っているのは偶然ではない)とそのサポーターにとって、ごく自然に受け入れられるロジックであるということ。 民族主義と地域主義、土着主義というのは、発想としてほとんど同根である。ウルトラスがアイデンティティとして持つ土着主義(都市ベース)のメンタリティは、日常生活の中での反移民感情、人種差別感情を媒介にして、極右の民族主義的主張に抵抗なくリンクしているように見える。スタジアムにおける黒人選手へのモンキーチャント、ユダヤ系選手への差別や攻撃から、ハーケンクロイツやケルト十字(ネオナチ、ネオファシズムのシンボル)までの距離は、ほんの小さなものでしかない。ゴール裏が極右という政治運動に自然に取り込まれているとすれば、理由のひとつはそこにあるような気がする。■ Posted at 10:38 午前 月 - 10月 6, 2008ビジネス化の波がフーリガンを追い詰める(2007.06)アーカイヴ#91。ウルトラス関連シリーズの3回目。この後ももう少し続きます。 「NO al calcio moderno
(新時代のサッカーにNOを)」。
ここ数年、イタリア中のゴール裏に、こんな横断幕が頻繁に掲げられるようになった。 別に、プレッシングやゾーンディフェンスをやめて古き良きカテナッチョに戻れ、と言っているわけではない。「新時代のサッカー」というのは、TVやマーケティングに支配されたビジネス・オリエンテッドなサッカー界のあり方のことだ。イタリアのゴール裏は、プロサッカーのビジネス化に「NO」を突きつけているのである。 プロサッカーのビジネス化というのは、つまるところ、サポーターを消費者として取り込もうという動きのことだ。スタジアムをテーマパーク化してカネを落とさせ、試合をペイTVのコンテンツとして囲い込んで視聴料を払わせ、クラブそのものをブランド化してオフィシャルグッズを売りまくる。いま国内リーグが最も繁栄しているイングランドとドイツは、このビジネスモデルが最も成功している国である。 イタリアでは、スタジアムの整備もオフィシャルグッズのブランド展開も遅れているが、その分、ペイTV局(スカイ・イタリア)のビジネス的な重要性が高い。いまやTV放映権料はクラブ売上高の3分の2を占めており、入場料収入の比率は年々下がり続けている。プロサッカークラブという事業が、地元の都市とスタジアムに来てくれるサポーターを顧客とする集客ビジネス(集金装置はスタジアム)から、地域を限定しない消費者を顧客とするマーケティングビジネス(集金装置はメディア)へと変貌してきているという構図そのものは、ヨーロッパの他のサッカー先進国とまったく変わらない。 ポイントは、この「新時代のサッカー」の構図においては、スタジアムを埋める数万人よりもTVの向こうの数百万人の方が、クラブにとってずっと大切な顧客であるという点にある。スタジアムを埋める数万人の、そのまたほんの一部分でしかないゴール裏の数千人が、「新時代のサッカーにNOを」と叫ぶのは、彼ら自身の存在感や重要性が大きく低下し続けていることに対する、深刻な危機感の表れなのである。 TVの向こうの数百万人、スタジアムに通う数万人、ゴール裏を埋める数千人。これが「新時代のサッカー」におけるクラブにとっての顧客の全体像だ。それぞれを以下、カギカッコつきで「ファン」、「サポーター」、「ウルトラス」と呼ぶことにしよう。 顧客の99%以上を占める「ファン」は、プロサッカーというエンターテインメントの従順な消費者といえる。受動的にサッカーを楽しみ、メディアというチャンネルを通じてクラブに金を落とし、でもそこに夢を見たり何かを仮託したりして楽しんでいる。そこではサッカーは、音楽や映画と同じレベルにあると言ってもいい。 わずか1%にも満たない「サポーター」は、毎試合スタジアムに足を運び、ライブでエンターテインメントを楽しむ、より積極的な消費者だ。だが、サッカーの世界との関わり方は、受動的なレベルにとどまっている。言ってみればコアなファンである。 一方、数で言えばまったくのマイノリティ、コンマ数%にしか過ぎない「ウルトラス」は、「ファン」や「サポーター」とは根本的に異なる側面を持っている。彼らは、もっと能動的にサッカーの世界に参加しているからだ。毎試合ゴール裏を埋め、応援のプレッシャーによってホームアドヴァンテージを作り出して、試合の内容や結果に直接的な影響を及ぼす。 「ウルトラス」にとってサッカーとは、単に受動的に楽しむべきエンターテインメントではなく、自分たちのアイデンティティに関わる何かであり、人生の重要な一部だ。彼らは、愛するチームの戦いにそのように能動的に参加し影響を及ぼしていることを以て、自分たちを一般の「ファン」や「サポーター」と区別して特別な存在だと考え、それを誇りに思っている。一種のエリート意識を持っているといってもいい(数百万人の中の数千人なのだから、実際エリートには違いない)。だから、マフラーとかTシャツとかそういう自分たちの所属を示すアイテムを身に付けて、エリートであることをことさらに誇示する。暴力もまたしばしば、そのための手段となる。 チームカラーに対するロイヤリティや試合への能動的な参加が「ウルトラス」のポジティブな側面だとすれば、暴力はそれと裏腹になったネガティブな側面である。このネガティブな側面ゆえに、そして消費者としては最も従順ではない部類に属する(クラブにカネを落とすよりはアウェー遠征費やコレオグラフィに使う。すぐに抗議をしたり暴れたりする)がゆえに、「ウルトラス」はクラブからも、そして「ファン」や「サポーター」からも、煙たがられる存在となりつつある。 問題は、彼ら「ウルトラス」が、暴力を許容し、それどころか積極的に肯定すらするカルチャーを持っているところにある。ただし注意しておきたいのは、スタジアムを舞台とする暴力事件を起こすような過激な暴徒は、数千人の「ウルトラス」の中でもまたほんの一部、せいぜい数百人単位でしかないということだ。彼らこそが正真正銘の「フーリガン」なのであり、一般の「ウルトラス」とは区別して論じるべきだろう。 彼ら「フーリガン」にとって、ゴール裏はしばしば、単なる隠れ蓑でしかない。彼らの目的は暴力そのものであり、その暴力衝動を最も簡単に、そして頻繁に解放できる場所として、ゴール裏が選ばれたに過ぎない。スタジアムでの暴力事件はたいてい、チームが負けている時に起こっているが、結局のところそれは暴動の理由ではなく、単なるきっかけでしかない。「フーリガン」は、暴れるための機会を待っていただけなのだ。 様々な報道や社会学的研究からわかるのは、彼らの多くはワーキングクラスや学生であり、元々格差社会であるヨーロッパにおいて、今の自分の境遇に不満を抱いていたり、生活に困難を抱えていたりする比率が高い階層であるということ。そして、徒党を組んで暴力を働くという行為が、そうした不満や困難のひとつのはけ口になっていることである。 厄介なのは、「フーリガン」がほとんどの場合、ゴール裏の「ウルトラス」の中に紛れていること。それだけでなく、「ウルトラス」を暴力に誘い、巻き込むことも珍しくない。それゆえ、各国の政府や警察は、「フーリガン」ではなく「ウルトラス」、すなわちゴール裏全体を標的にして、厳しく圧力をかけはじめている。 イタリアでも、今年2月のカターニア暴動事件以降、スタジアムの安全対策強化と同時に、横断幕規制、発煙筒や爆竹の全面禁止(これは以前からそうだったが事実上許容されていた)といった、ゴール裏への締めつけが進んでいる。スタジアムの安全対策を徹底して行い、暴力に対してはどんな小さな行為(例えばコインをピッチに投げこむ)でも即時逮捕・拘留という厳罰を導入して、スタジアムから暴力を全面的に排除することに成功したイングランドのケーススタディが、学ぶべき模範としてしばしばマスコミや関係者に取り上げられるようにもなった。 「新時代のサッカー」が最も進展しているイングランドのプレミアリーグ、ドイツのブンデスリーガ(この両国はヨーロッパで最も経済が発展している豊かな国でもある)のスタジアムで今シーズン、暴力事件が起こっていないのは、おそらく偶然ではないのだろう。この両国は、「フーリガン」を徹底排除し「ウルトラス」の暴力性を抑圧することによって、トップリーグのスタジアムを「サポーター」と「ファン」、つまり受動的な消費者、従順な顧客だけの場所にすることに成功した。 だが、排除された「フーリガン」たちは、いったいどこへ行ったのか?消え去ってしまったのだろうか? イタリア在住の英国人作家ティム・パークスは2004年にこんなことを書いている。 「ハイバリーやアンフィールドが、映画館のように安全で、オペラ座のように高額になったこの時代、ロンドン郊外における暴力事件は毎年眩暈がするようなペースで増えている。土曜の午後のスタジアムは安全で快適だ。しかし夜になったら足を踏み入れることすら危険なストリートは、特に郊外では増えるばかりだ。単に、この種の暴力は日常の中に溶け込んでおりニュース性がないので、その犠牲者がマスコミに取り上げられることが少ないというだけのことなのである」 ドイツでも、今年の2月15日、旧東ドイツ・ザクセン州の地域リーグで、800人のフーリガンと300人の警官隊が衝突し、警官36人が病院送りにされるという事件があった。イタリアでも、スタジアムにおける暴力はセリエAよりもセリエC以下の下部リーグの方がずっと深刻である。東欧やギリシャ、トルコといった、経済的に遅れている国々でも、スタジアムは荒れている。 これは何を意味しているのか。「新時代のサッカー」の舞台となっているサッカー大国のトップリーグでは、ビジネス化の波にも後押しされる形で「フーリガン」、そしてしばしば「ウルトラス」の抑圧と排除が進み、スタジアムが素晴らしい“シアター・オブ・ドリームズ”に仕立て上げられる一方で、プロサッカーの周縁部分(下部リーグ、マイナーな国々)はそこから取り残されて、ネガティブな側面だけを抱え込むようになっている、とは言えないだろうか。 スタジアムは社会の鏡、とよく言われる。社会が抱える歪みや澱がゴール裏に吹き溜まり、「フーリガン」の暴力として噴出するのもその一面なら、トップリーグのスタジアムがその歪みや澱を、抑圧と排除という形で、スポットライトが当たらないどこか別の場所に追いやって涼しい顔をするのも、またその一面である。 ビジネス化の波は「フーリガン」を追い詰めている。しかしスタジアムから排除されたところで「フーリガン」が消えるわけではない。社会が抱える歪みが解決したわけではないのだから。 しかしその一方では、イタリアの「ウルトラス」の中にも、「フーリガン」と距離を置き、非暴力・反人種差別をモットーに、チームカラーに対するロイヤリティや試合への能動的な参加というポジティブな側面だけを全面に打ち出したムーヴメントを作り出そうという動きが出始めている。 ゴール裏そのものを「フーリガン」と呼んで断罪し、スタジアムから一方的に排除しようとするのは、あまりにも安直でご都合主義的な論理に過ぎる。受動的な「ファン」や「サポーター」ではない、能動的な参加者としての「ウルトラス」の存在意義と価値を、もう一度ポジティブに捉え直すべきではないのか。「新時代のサッカー」にNOを突きつける彼らは、そう主張する。 チームに対する愛情と献身、応援を通して共に戦う団結の意識、勝利の熱狂と敗北の落胆を共有することで生まれる運命共同体的感情。これは、世界中の「サポーター」と「ウルトラス」に共通する要素である。そこを出発点にして、「フーリガン」とは一線を画したゴール裏のあり方を築いていけるかどうか。「ウルトラス」の未来はそこにかかっていると言ってもいいだろう。■ (2007年6月14日/初出:『footballista』) Posted at 06:07 午後 金 - 10月 3, 2008蝕まれたゴール裏(2007.02)アーカイヴ#90。今後数回はウルトラス関連の原稿を順番にアップして行くことにします、と書いてから瑣事に紛れて半月も経ってしまいましたが、予定通りウルトラス関連の話を続けます。 イタリアでゴール裏のサポーターグループが暴力集団化して、ウルトラスと呼ばれる(というか自称する)ようになったのは、1970年代からだと言われている。80年代にヨーロッパ全域で活発化したフーリガン現象と軌を一にして、イタリア中のゴール裏に広まり、そのまま定着して現在に至っている。
ウルトラスというのは、彼ら自身に言わせれば「一つのライフスタイルであり価値観」なのだと言う。 自分の都市とチームを深く愛し、ともに戦うためにホームはもちろん、どんなに遠いアウェイの試合にも必ず駆けつけ、そのためならいかなる肉体的、経済的な犠牲をも厭わない。仲間との友情、自らが属する組織に大きな価値を置く。そして、その行く手を阻む者、自由を奪おうとする者とは徹底的に「戦う」。 チームに対する愛情と献身、応援をとおしてともに戦う団結の意識、勝利の熱狂と敗北の落胆を共有することで生まれる運命共同体的感情。これは、世界中のサポーターに共通する気持ちだろう。理解が困難になるのはそこから先、暴力にかかわる部分だ。 「ウルトラスというライフスタイル」には、暴力の肯定が最初からセットされている。「敵」(相手のウルトラス)に対して自らの名誉を守るため、そして自分たちを抑圧する「権力」(警察)と戦い自由を守るため、という名目での暴力は積極的に認められており、逆にその暴力性がアイデンティティのようになっているのだ。 ただし、彼らが「ウルトラスのメンタリティ」と呼んでいる独自の倫理規範に従えば、暴力の行使が許されるのは上に挙げた2つの状況、つまり対ウルトラス、対警察だけであり、しかも、ナイフをはじめ殺傷力のある武器を手にしたり、圧倒的な数的優位に物を言わせて相手を痛めつけるような卑怯な振る舞いは、本来許されていない。 ヘラス・ベローナのウルトラスと1シーズンにわたって行動をともにしたルポルタージュ、『狂熱のシーズン』(日本語版タイトル)を著した在伊イギリス人作家ティム・パークスは、3年ほど前に『コリエーレ・デッラ・セーラ』紙に寄稿した一文の中で、次のように記している。 「現代社会は私たちの中に、強く闘争的な連帯の感覚を取り戻させてくれるコミュニティへのノスタルジーを、否応なく育んできた。そのはけ口としてのウルトラスは、行き過ぎた感情が最悪の形で爆発することからは逃れている。彼らは犯罪集団やナチストになるかわりに、場所と時間を週末のスタジアムに限定した、局地的な原理主義を発明した。そこでは、政治とか労働とか、そういうリアルな世界の中に具体的な原点を持つ必要がないまま、戦闘状態にあるコミュニティがもたらしてくれるあらゆる興奮とエモーションを満喫することができる。一部のウルトラスグループが取る、非常にアイロニカルで自嘲的な態度は、まさにリアルな世界における具体的な原点の欠落を自覚しているがゆえである」 パークスが『狂熱のシーズン』の中で非常に好意的に描いているヘラスのウルトラスは、はっきりいって下品で粗暴なろくでもない連中でありながらも、最後の一線を決して超えないバランス感覚を備えており(それを支えているのがアイロニーだ)、それゆえに愛すべき存在だった。しかし残念ながら、2007年のゴール裏の現実は、その最後の一線のこちら側にはとどまっていない。 今や、イタリア中のゴール裏のほとんどは、ネオナチ、ネオファシストといった極右勢力の拠点となっており、その多くはドラッグの密売を通じて地下犯罪組織(マフィア)とも繋がっている。そしてウルトラスのリーダーたちは、チケットのマージン搾取からオリジナルグッズ、果てはドラッグ(主にコカイン)の密売まで、ゴール裏を舞台にしたビジネスという「リアルな世界における具体的な原点」を持ってしまっている。 彼らが警察を目の敵にし、今回のカターニアのように戦争(あれは完全に市街戦だった)を挑みさえするのは、単にウルトラスの自由を抑圧する国家権力の象徴だからという理由だけでなく、(しばしば非合法の)ビジネスという彼らの具体的な利害を損なう、憎むべき敵だからである。 イタリアのウルトラスの最大の特徴は、グループとして非常に強く組織化されており、独自のヒエラルキーと規律を持っている点にあると言われる。それぞれのゴール裏では、複数のグループが群雄割拠して勢力を競っている訳だが、どのグループでも、限られたリーダーが全権を握り、その周囲を幹部が固め、残りはすべて兵隊、という構造は同じである。 許しがたく醜いのは、その兵隊たち(未成年も多く含まれている)が、ひと握りのリーダーたちによって、治外法権化したゴール裏に囲い込まれ、喰い物にされているという現実だ。3日ほど前に取材で話をしたミランのガットゥーゾははっきりと「棍棒を持って警官隊に突っ込んで行く15歳、16歳の子供が、正気だってことはあり得ない。クスリで思考と感覚がマヒしているからあんなことができるんだ」と言っていた。 そこにはもはや、ウルトラスが当初持っていた「ライフスタイル」も「メンタリティ」もない。あるのは、犯罪組織に限りなく近いグループによる、暴力と搾取の構造だけである。彼らが存在を許される理由は、どこにもない。□ (2007年2月9日/初出:『footballista』) Posted at 06:10 午後 月 - 9月 15, 2008カターニア暴動事件:ウルトラスの暴力の背後にあるもの(2007.02)アーカイヴ#89。今シーズンも開幕早々から、ナポリ・ウルトラスの特急列車ジャック&破壊という馬鹿げた事件が起こってしまったセリエA。先週末の第2節は、サン・パオロのゴール裏が閉鎖されたほか、アウェイサポーターの遠征が全面的に禁止されるという厳しい措置が取られました。フィオレンティーナのゴール裏のように、最近ちゃんとお行儀良く振る舞っている皆さんまでとばっちりを食うのは気の毒だし、抑圧することだけで問題が解決するとは到底思えないのですが、少しでも隙を見せるとすぐ増長するのがウルトラスの特徴でもあるので、当局が一罰百戒という姿勢を取るのも、それはそれで仕方ない側面はあります。 イタリアにおいて、ウルトラスと呼ばれるゴール裏のサポーターグループの暴徒化は、30年来の大きな社会問題である。1970年代に生まれ、80年代にヨーロッパ全域で活発化したフーリガン現象と軌を一にして、イタリア中のゴール裏に広まり、そのまま定着して現在に至っている。
初めてウルトラスの暴力による死者が出たのは、1979年10月のローマダービー。ローマのゴール裏から撃ち出された船舶用の信号弾に直撃されたラツィオサポーターが犠牲者だった。それから2000年までの21年間で、死者は6人に上った。95年2月には、ジェノヴァで行われたジェノア対ミラン(ジェノアにはカズが所属していた)で、試合前にミランのウルトラがジェノアのウルトラを刺し殺すという事件が起こり、翌週のカンピオナートが中止になっている。 当時のウルトラスの暴力は、ホームとアウェーのウルトラス同士の戦いであり、いってみれば「果たし合い」的な文脈の中で生まれるものだった。しかしここ数年、大きな事件はむしろウルトラスと警官隊の間で起こるようになっている。暴力が向けられる矛先が明らかに変わってきているのだ。 その背景にあるのは、ウルトラス・グループそのものの変質である。90年代末から00年代にかけて進んだカルチョのビジネス化と並行して、ウルトラスのリーダーたちも、メンバーへのチケット販売でマージンを取る、オリジナルグッズを作って販売する、果ては麻薬の密売にまで手を出すといった形で、治外法権化したゴール裏を自分たちのマーケットとして囲い込み、ビジネスを展開するようになった。それに伴って、経済的に何も生み出さない敵ウルトラスとの小競り合いにはもはや興味を失い、クラブに影響力を行使し大きな便宜を得るための脅迫行為や、それを邪魔する警察との抗争へと、暴力の矛先が向いてきている。 例えば、2005年5月のチャンピオンズリーグ準々決勝、ミラノダービーでインテル・ウルトラスが起こした発煙筒投げ込み事件は、ゴール裏への利益供与を拒否し続けるクラブへの脅迫/報復行為だったし、その1年前に起こったローマダービー中断事件は、両ゴール裏が示し合わせて「試合前にウルトラスと警官隊の小競り合いがあり、そこで子供が警察に殺された」というデマを流し、スタジアムにパニックの種を蒔くことによって試合の中断を余儀なくさせるという、警察に対する悪質な示威行為だった。 伝えられている通り、今回カターニア・ウルトラスが起こした暴動も、警官隊をターゲットにした計画的犯行だった。パレルモサポへの襲撃は、単なるカムフラージュだったのだ。 もちろん最大の問題は、その矛先は変われど、ウルトラスの暴力事件そのものは一向に減る気配がないという点にある。その大きな原因は、何か対策をとっても、少し時間が経つとなし崩し的にうやむやになり、結局元の木阿弥に戻るという、イタリア社会のいい加減さにあるように見える。 全国の警察署には、DIGOSと呼ばれるウルトラス対策専門の部署があり、各グループのリーダーや幹部の名前から行状まですべてを把握している。にもかかわらず、ミイラ取りがミイラになって相手と癒着し、厳しく取り締まらずに泳がせているケースも少なくないようだ(この辺は日本の暴対とよく似ている)。 昨年夏に成立・施行されたテロ・組織暴力対策法案では、危険物と危険人物をスタジアムから排除するために、スタジアムへの回転ゲート設置や記名式チケットが義務づけられた。しかし1年半が過ぎた現在も、条件に合った施設を整えたスタジアムは、トリノ、ローマ、ジェノヴァ、パレルモの4つだけ。記名式チケットも、発券トラブルが相次いだことなどから、現在はほとんどのスタジアムで有名無実になっている。 FIGCは現在、先週末と今週末の2週にわたってすべての試合をストップし、再開後も当面は無観客試合にする方向で議論を詰めているようだ。しかし、これもほとぼりが冷めるまで待つという以上の意味はない。現行の法案すらまともに運用されていないというのに、また何か新たな対策を打ち出したところで、すぐにうやむやになってしまうのが落ちだろう。 80年代末にフーリガンが大きな社会問題になったイングランドでは、危険人物のスタジアムからの締め出しと、スタジアム内での暴力行為に対する厳罰処分を徹底して行い、10年間でスタジアムの雰囲気を一変させた。だがイタリアの問題は、どんな対策を導入たところで、それを徹底して厳格に運用できないところにある。制度ではなく文化の問題だけに、根が深い。□ (2007年2月3日/初出:『footballista』) Posted at 06:38 午後 プラティニが握る欧州サッカーの未来(2007.01)アーカイヴ#88。2007年のお正月に、3週間後に迫ったUEFA会長選挙に向けて書いた原稿。プラティニは無事会長に当選し、G-14解体やCLのフォーマット変更(中堅・弱小国を優遇)など、欧州サッカー界の「正常化」に向けて着実に実績を積み重ねています。特定の利害に囚われずこれだけ大局的な判断ができるトップを持ったUEFA、というか欧州サッカー界は幸せです。 2007年1月26日は、ヨーロッパサッカー、そしておそらくプラネット・フットボール全体にとって、過去と未来を分かつ大きな分水嶺となるだろう。
――という大仰な書き出しで新年最初の当コラムをスタートするのは、ほかでもないこの日、デュッセルドルフで開かれるUEFA総会において、ミシェル・プラティニが現職レナート・ヨハンソンに一騎打ちを挑んでいる会長選挙の投票が行われるからだ。 90年からUEFA会長の座にあるヨハンソンは、ここ10数年欧州サッカー界を支配してきたトレンド、すなわち、地域に根ざした都市のスポーツからマスメディアに支配された世界的なエンターテインメントへ、楽しみとしてのスポーツから利益のためのビジネスへ、という変化の推進者だった。 イングランド、ドイツ、スペイン、イタリアといったサッカー大国とビッグクラブの支持を背景に、欧州選手権本大会の拡大(8カ国から16カ国へ)、欧州チャンピオンズカップのチャンピオンズリーグへの改変と、それに続く三大カップの解体など、現在のビジネス・オリエンテッドな枠組みを確立したのは、ヨハンソンである。その再選は、したがって、大国とビッグクラブの経済的利害を優先する現行路線の継続(あるいは加速)を意味しているといっていい。 一方、対立候補として立ったミシェル・プラティニは、当初からはっきりと現行路線に批判的な立場を表明し、大国から小国まで、ビッグクラブから弱小クラブまですべての利害を等しく考慮した「ビジネス主導からフットボール主導への回帰」を打ち出してきた。 象徴的なのが「チャンピオンズリーグに1カ国から4チームは多過ぎる」という主張である。99年に行われた欧州三大カップの解体を通じて弱小国を締め出し、事実上の欧州ビッグクラブ選手権と化したCLを、UEFA加盟国すべてに参加のチャンスがある平等主義的なシステムに戻すべきというのが、プラティニの意見だ。現在4チームを送り込んでいるイングランド、スペイン、イタリアの枠をひとつ減らす代わり、3チームすべてを予備予選なしで直接エントリーさせ、浮いたひと枠を中堅国に回すというのがその具体案。 当然ながら、もしプラティニがUEFA会長の座に就くことになれば、ヨハンソンが推進してきた現行路線は、小さくない修正を受けることになるだろう。そしてその方向は、現在のUEFAビジネスを支える大国やビッグクラブ(とりわけG-14)とは利害を異にするものになる。 それでは、投票があと3週間後に迫った現時点での票読みはどうなっているのだろうか。 投票の権利を持っているのは、UEFA加盟53カ国。イングランド、ドイツ、スペイン、イタリアといった大国も、サン・マリーノ、アンドラ、リヒテンシュタインといった小国も、持っている一票の重さは同じである。 ヨハンソンは、基盤である北欧諸国に加え、ドイツ、スペイン、イタリアという大国の支持を得ている(イングランドの動向は未知数だがヨハンソン支持が濃厚と見られている)。一方のプラティニを支持しているのは、フランスに加えて、ポーランド、ブルガリア、セルビアといった東欧諸国。CL参加枠をはじめ、中堅・弱小国に対して今よりも手厚い施策を約束しているプラティニの側に立つのは、これらの国々にとっては当然の選択といえるだろう。 プラティニは「フットボールの未来を、ビジネスマンや弁護士の手からフットボーラーの手に取り戻す時が来た」とも語っている。事実、東欧諸国への選挙運動をサポートしてきたのは、ボニエク(ポーランド)、ストイコヴィッチ(セルビア)、ストイチコフ(ブルガリア)といった、各国協会の要職に就いている元フットボーラーたちである。 その甲斐もあってか、昨年末に伝えられた観測は、プラティニが30-35票を握って優勢、というもの。しかし、これだけ大きな経済的利害がかかった選挙となれば、この段階での票読みはあまり当てにはならない。ここから投票日まで、劣勢が伝えられるヨハンソン陣営は、あらゆる手練手管を使ってプラティニ票の切り崩しを図るに違いないからだ。 鍵を握ると言われているのは、旧ソ連諸国に大きな影響力を持つロシアの動向、そしてプラネット・フットボールの総元締めであるFIFA会長ブラッターの意向。プラティニは2002年からFIFAエグゼクティヴ・コミッティのメンバーであり、ブラッターのアドバイザーも務めていたが、現在の両者の関係は必ずしも良好ではないとも言われる。それは、プラティニのスポーツ原理主義的な考え方が、ブラッターのビジネス・オリエンテッドな志向と噛み合わないことが多かったためとも言われる。 ヨハンソンが進めてきた現行路線は、CLと欧州選手権という二大UEFAコンペティションを世界的なエンターテインメント・コンテンツに仕立て上げ、各国協会(特に大国のそれ)とビッグクラブに大きな富をもたらした。しかしその裏では、大国と中小国、ビッグクラブとその他大勢の格差拡大、二極化という弊害が、深刻なレベルまで進んでいることも事実である。 その流れはこれからも続いていくのか。それとも大きく変わるのか。運命の時は近づいている。■ (2007年1月4日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」) Posted at 12:49 午前 水 - 9月 10, 2008偉大なストライカーの条件とは(2007.01)アーカイヴ#87。EURO2008の開幕以来、恒例の夏休みをいただいていましたが、9月に入って新シーズンも始まったので、このアーカイヴの更新を再開します。定期的に読んで下さる方はもうほとんどいないと思いますが、検索で引っかかって見に来られる方はいると思うので、お役には立てるかな、と。もしよろしければ、他のエントリーもご一読ください。 セリエAが冬休みに入った隙に乗じて一時帰国した際に、西部、木村両大人との新春座談会に参加させていただいた。そこで出た中で興味深かったもののひとつが、日本は確かに強力なストライカーが生まれにくい社会だけど、強力なストライカーがどんどん出てくる社会は、サッカー的にはともかく一般的にはいい社会なのかどうかわかんないよね、という西部さんの話だった。
それで思い出したのが、最近あるDVD付きムックのための企画で、イタリアきっての理論派監督が分析してくれた「偉大なストライカーと並のストライカーの決定的な違い」である。 過去10年間のセリエAで何年か連続して2桁ゴールを挙げたストライカーたち、すなわちシェフチェンコ、トレゼゲ、ヴィエーリ、トッティ、クレスポ、インザーギ、モンテッラ、デル・ピエーロ、少し過去に遡ってバッジョ、シニョーリ、バティストゥータ、ビアホフ、ウェア、ヴィアッリといった面々のプレーを分析してもらったのだが、そこから出てきた結論は次のようなものだった。 「偉大なストライカーはそのほとんどが、ゴールを決めるためだけにプレーし、それ以外のことには関心も持たなければ貢献もしない、極度に単機能的なプレーヤーである」。 少し具体的に見て行くことにしよう。 技術的に見ると、彼らは決して万能とはいえない。彼ら全員が卓越したレベルで備えている能力は、ほとんどの場合2つだけである。ひとつはシュート、しかもボールを止めずダイレクトで蹴る技術。これは全員に共通している。そこにもうひとつ、ヘディングか1対1突破のどちらかが加わるのだが、それ以外の項目、つまりトラップ、パス、ロングパス、クロスなどは、多くの場合ごく平凡なレベルでしかない。 試合中のプレーを観察すると、彼らは総じて、他のプレーヤーよりもボールに触れる回数が少ない。これは、攻撃を組み立てるプロセスではあまりプレーに参加しないためだ。参加せずに何をしているかといえば、今展開しているプレーからどのようにして前線にボールが届くかを絶えず想定しながら、それに備えて動いているのである。彼らは常に、セットプレーを除くゴールの約75%が生まれる、ペナルティエリア中央のゾーンに入り込むことを狙っている。 一旦ボールを持ったときのプレー選択が直感的で、合理性に欠けているのも彼らの特徴だ。パスすべき状況で強引にシュートを打ったり、ダイレクトではたくべき状況でトラップして前を向き、リスクの大きい突破を仕掛けたりする。プレー選択の基準は非常にエゴイスティックで、その視野からは敵DFや味方の存在がしばしば抜け落ちている。一般論として言えば、常に最も合理的で妥当な選択肢を選ぶプレーヤーがいいプレーヤーだということになるわけだが、その観点からいえば彼らはまったく褒められたものではない。 当然ながら、戦術的なタスクの遂行能力は非常に低い。とりわけ守備のタスクは、興味も意欲も持っていないため、与えてもまったく当てにすることはできない。攻撃においても、組織的な攻撃パターンの中で機能させようとするとうまく行かない。これはおそらく、自分とボールとゴール、その三者の位置関係以外は、あまり意識していないためである。 こうしたプレーヤーは、監督にとっては非常にやっかいな存在である。なにしろ言うことを聞かない。プレッシングもしなければ、決められた動きのパターンを守ることもしない。戦術的にはまったく計算が立たないと言っていいだろう。 だが皮肉なのは、より多くのボールに触れ、チームのために献身的に働き、リスクの少ない合理的なプレーを常に選択し、エゴイスティックなところがないフォワード、すなわち戦術理解力、タスク遂行能力が高い、監督に好かれるタイプのフォワードは、彼らよりもずっとゴールの数が少ないという事実である。 逆に言えば、偉大なストライカーというのは、ほぼ例外なく、自分勝手で協調性がなく、強引で、能力的にもあきらかに偏りがあり、好きなことしかやらず、回りには苦労ばかりかけるけれど、誰よりも得意なことがひとつだけあって、それに成功するとどうだ文句あっかと開き直るようなタイプだということだ。 確かにこれは、日本の社会ではなかなか受け入れられにくい人物像に違いない。日本サッカー協会統一指導指針に則ったエリート教育からは、間違いなく出てこないタイプである。Jリーグの得点ランキング上位が外国人ストライカー(想像だけで言うが、きっとみんなこういうエゴイスティックなタイプに違いない)で占められていることも、それと無関係ではないだろう。 話を最初に戻すと、こういう奴がたくさん出てくる社会がいい社会かどうかは、確かに議論の分かれるところだろうと思う。個人的には、こういう奴が出てくるのを許容できない社会もまた、一般的に見ていい社会ではないんじゃないかという気がするけれど。□ (2007年1月13日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」) Posted at 05:38 午後 月 - 6月 9, 2008地獄の沙汰もコンディション次第(2006.06)アーカイヴ#86。ユーロ2008が始まりました。2日間、4試合を終わった時点では、結果は予想通り、内容は退屈という、いまひとつの滑り出しですが、明日はイタリア対オランダがありますからね。ディ・ナターレがオーイエルをチンチンにするというのがぼくの妄想です。問題はマテラッツィですが。 ワールドカップの開幕が近づいてきた。出場国の多くは、ヨーロッパ各地での“一次合宿”を終え、今週末の国際親善試合で、最後の調整を行っている。本番まで1週間あまりとなった今、気になるのはやはり各チームの仕上がり具合である。誰もが優勝候補の筆頭に挙げるブラジルは、シーズン中出来の悪かった何人かの選手も、アドリアーノを筆頭に水を得た魚のように調子を取り戻し、過剰なまでに順調に仕上がってきているようだが、その一方では、開幕に向けてコンディション面で不安を抱えている強豪も少なくない。
不安の材料は、2つのタイプに大別することができる。ひとつは、シーズン中の故障で戦列を離れていた選手が、本番までに間に合うかどうか。もうひとつは、直前合宿や親善試合での思わぬ怪我・故障である。 前者の代表的な例が、イタリアの大黒柱トッティ。2月半ばに喫した左足首の骨折から、過酷なリハビリを乗り切って驚異的な回復を見せ、何とか戦列復帰を果たした。31日に行われたスイスとの親善試合では、3ヶ月半ぶりに90分フルにプレーしたが、その動きはまだ鈍重で、出来としては60%というところだった。本来のパフォーマンスが見られるとしても、それはイタリアがグループリーグを勝ち上がってからの話になりそうだ。 4月末に右足中足骨を骨折したイングランドのエース、ルーニーも、復帰はトーナメント以降になりそうな雲行きだ。ルーニーがいるといないでは、イングランドの攻撃力に天と地ほどの差が出ることは誰もが知る通り。しかも、そのパートナーまたは代役(システムによる)となるべきオーウェンにしても、今シーズンの大半を故障で棒に振り、4月末にやっと復帰を果たしたばかりで、本調子からはほど遠い。 4年前の日韓大会直前に、キャプテンのベッカムが今回のルーニーとまったく同じ怪我をしたというのは、何かの因縁だろうか。あの時、ベッカムは何とかギリギリで復帰を果たしたものの、そのパフォーマンスは絶好調時のそれからはほど遠いものだった。準々決勝のブラジル戦、ライン際のルーズボールを競りに行きながら、足を出さずにジャンプしてタックルを避けた末にボールを失い、それがブラジルに同点ゴールをもたらすロナウジーニョのカウンターの端緒になったことを、覚えている方も多いだろう。「オカマ野郎しかやらないプレー」と酷評されたあの“華麗なジャンプ”は、おそらく怪我した足をかばうための、反射的なアクションだった。 攻撃のキープレーヤーが故障から復帰したばかりという事情は、グループEでイタリアと同居するチェコにもあてはまる。最前線のターゲットマンとなるべきコラーと控えのロクベンツはともに故障明け。ほとんどぶっつけ本番で開幕を迎えることになる。初出場のウクライナも、頼りのシェフチェンコがシーズン終盤に痛めた膝を抱えて、やっとチームに合流したという状況である(チェルシーのメディカルチェックは済ませたが)。 他方、ここに来て思わぬ故障で大事な戦力を失うチームも相次いでいる。ヴチニッチ(セルビア・モンテネグロ/FW)、デル・オルノ(スペイン/DF)、フェドロフ(ウクライナ/DF)、田中(日本/DF)は、23人のリストから外れて帰国することを強いられた。 リストから外れるほどでなくとも、小さな故障に悩まされているキープレーヤーは少なくない。トッティに何とか回復のメドが立ったイタリアも、その一方では、攻守両面で大きな役割を担う右SBザンブロッタが左太腿に軽い肉離れを起こし、休養を強いられている。診断結果は、全治15-20日。少なくともグループリーグ最初の2試合は出場できない計算である。他にも、ロシツキ(チェコ)、ファン・デル・ファールト(オランダ)など、エース級の選手が複数、捻挫や軽い肉離れでストップを強いられている。 大会直前の故障といえば、思い出すのは4年前のジダン。韓国との親善試合で被った太腿の肉離れが、優勝候補フランスのグループリーグ敗退をもたらした最大の原因だった。98年には、イタリアのデル・ピエーロがチャンピオンズリーグ決勝でやはり肉離れを起こして、ほとんど活躍できないまま大会を終えている。 ヨーロッパのビッグクラブで長いシーズンをプレーしたスター選手たちの肉体は、蓄積した疲労で、非常に痛みやすくなっている。筋力や筋持久力の低下は関節への負担増ももたらすから、肉離れなど筋肉系の故障だけでなく、捻挫や靭帯損傷といった関節系の怪我も起こりやすくなっているのだ。また、免疫系の耐性も低くなっているため、小さなことで体調不良に陥りやすい。これから開幕までの間にも、まだ誰にどんなハプニングが起こるかはわからない。 今年の初め、インテルのロベルト・マンチーニ監督がこんなことを言っていたのを思い出す。 「今ワールドカップの予想をすることにはほとんど意味がない。まだ半年も先の話じゃないか。重要なのは、どれだけいいメンバーが揃っているかじゃない。どれだけいいコンディションで大会に臨むことができるかだ。4年前のワールドカップでも、この間のユーロでも、主力が疲れていたり傷んでいたチームは軒並み敗退したのを覚えてるだろう?これから先、誰が怪我するかもわからない。今言えるのは、きっと今度もサプライズの多い大会になるってことだけだね」■ (2006年6月3日/初出:『El Golazo』連載コラム「カルチョおもてうら」) Posted at 02:19 午前 火 - 6月 3, 2008ロベルト・マンチーニ、自らのキャリアとゴールを語る(2006.11)アーカイヴ#85。つい数時間前、インテルの練習場ピネティーナで、ジョゼ・モウリーニョ新監督の就任記者会見が行われました。「私がスペシャルなのではなく、インテルがスペシャルなクラブなのだ。私はただのジョゼ・モウリーニョだ。以前からイタリアで、できれば偉大なクラブで仕事をしたいと思っていた。その機会を与えてもらったことに感謝している。あななたちジャーナリストもきっと楽しめると思う」。早くもモウリーニョ節が炸裂して、マスコミの皆さんもわくわくしているようです。 エレガントな身のこなしと正確無比のボールコントロールで、難しいプレーを当たり前のようにさらりとこなしてしまう一方、ヒールキックのような小技を使って、エスプリの効いたスペクタクルを演出して見せる。自らゴールを決めるだけでなく、どんなFWにも年間20ゴール以上を決めさせてしまうアシストの天才。
ロベルト・マンチーニは、攻撃に関するあらゆるプレーをおそろしく高いレベルでこなす、サッカーセンスの塊のようなプレーヤーだった。「ゴール」(しかも自分が決めたものだけ)という視点は、この万能フットボーラーの全貌からすれば、ごく限られた側面を見せてくれるものでしかない。にもかかわらず、このDVDに収められた23のゴールからだけでも、マンチーニというプレーヤーのテクニックとセンスの卓越性は十分以上に伝わってくる。 弱冠16歳でボローニャからセリエAデビューを果たし、そのシーズンに早くも9ゴールを記録した早熟の天才児にして、35歳でラツィオに悲願のスクデットをもたらした成熟の賢者。キャリアの始めと終わりを記すこの2つのクラブに挟まれた15年という長い年月をサンプドリアのシンボルとして過ごし、このジェノヴァの中堅クラブに信じられない黄金時代と数々のタイトルをもたらした。 2000年のスクデットを花道に引退してから6年。今はインテルの監督としてスクデットとチャンピオンズリーグという2つのタイトルを目指すマンチーニを訊ねて、19年間にわたる現役時代を振り返ってもらいつつ、DVD収録のゴールにもコメントしてもらった。 ――今でも現役時代の映像を見たりすることはありますか? 「いやもう全然見ないな。見ないようにしてるんだ。見ると、またピッチに戻ってプレーしたくなっちゃうから。もう家にも自分の試合のDVDなんて1枚も持ってないと思う」 ――じゃああとでプレゼントしますよ(笑)。 「悪くないね(笑)」 ――このDVDにはボローニャ時代のゴールもひとつ入っています。16歳でセリエAにデビューしたばかりのウディネーゼ戦です。デビュー1年目で9ゴールというのは、信じられない数字ですね。 「言っとくけど、9ゴールっていうのは、得点王が15ゴールかそこらだった時代の9ゴールだからね。セリエAは16チームで、30試合しかなかった。しかも20歳以下の若手なんてほとんど出場していなかった時代の話だよ。今の9ゴールとは価値が違うってこと」 ――デビューしたシーズンにボローニャが降格して、あなたは17歳でサンプに移籍することになるわけですが、ビッグクラブからのオファーはなかったのでしょうか?サンプを選んだのはどうしてですか? 「本当ならユヴェントスに行くはずだったんだ。子供の頃はユヴェンティーノだったし、ユーヴェとボローニャは一度は合意に達していたからね。でもその後、サンプからのオファーがあった。ボローニャで可愛がってくれたパオロ・ボーレアがサンプのスポーツディレクターになって、是非来ないかと説得されたんだ。信頼できる人の誘いだったし、当時のサンプはまだセリエAに昇格したばかりだったけれど、パオロ・マントヴァーニ会長の人となりや、何年かかけてスクデットを目指すという野心的なプロジェクトについて説明されて、心を動かされたんだ。僕は野心的なプロジェクトに弱いんだ」 ――当時のサンプドリアはどんなクラブでしたか?現在でいえばどこに例えられるでしょう? 「いや、他のどんなクラブにも例えられない特別な存在だった。他にはああいうチームはないね。時間をかけて少しずつ、当時イタリアで一番有望だった若手を集めながらチームを育てていった。僕だけじゃなく(ジャンルカ)ヴィアッリや(ピエトロ)ヴィエルコウッド、(ルカ)ペッレグリーニ、(モレノ)マンニーニ、みんなそうしてサンプにやってきたんだ。最初の何年かは、なかなか結果が出ない困難な時期もあった。でもチームが成熟してからは、イタリアでもヨーロッパでも、手に入るほとんどすべてのタイトルを勝ち取るまでになった。唯一、チャンピオンズカップだけは決勝で敗れてしまったけれど……(*)。セリエAに昇格したばかりのチームが、コッパ・イタリアから始まってスクデットを取り、最後はチャンピオンズカップの決勝まで行った。こんなストーリーは他にはないよ」 (*訳注:サンプドリアは80年代末から90年代初頭にかけて、イタリア国内でスクデット1回、コッパ・イタリア4回、スーパーカップ1回、ヨーロッパでも三大カップすべてでファイナリストとなり、カップウィナーズカップ1回を勝ち取っている。チャンピオンズカップのほか、UEFAカップでも決勝で敗退。相手はいずれもヨハン・クライフ率いるバルセロナだった) ――サンプに移籍してから勝ち始めるまでの何年かは、あなたにとっても学習と成長の時期だったと思いますが。 「最初の2、3年は完全なレギュラーじゃなかったし、まだ若かったから練習に対する態度もまだいい加減だった。誰でも経験を積みながら物事を学んでいくものだからね」 ――最初の何シーズンか、20代前半のうちはゴールも一ケタでした。 「自分がゴールを決めるよりも、ラストパスを送って他人に決めさせる方が楽しかったんだ。僕はキャリアを通して200近いゴールを決めたけど、間違いなくそれ以上のゴールをアシストしてきたからね。他人からパスをもらってただゴールを決めるよりも、華麗なプレーを決めてその後決定的なパスを出す方がかっこいいと思ってたところもあった。そっちの方が好きだったことは間違いない」 ――最近よく、イブラヒモヴィッチが昔のマンチーニによく似ていると言われますよね。 「ああ。そういうところはあるな。偉大なワールドクラスになるすべての資質を備えているからね。確かに僕も若い時には、チームにとって重要なプレーよりも、自分が好きでやりたいプレーを選ぶようなところがあった。ゴールが少なかったのはそのせいもある。今のイブラヒモヴィッチもそうだ。でも彼にもそのうち、一番大事なのはゴールを決めてチームを勝たせることだとわかる時が来るよ」 ――あなたがそれをわかったのはいつでしたか? 「24歳か25歳か、そのくらいになってからだな。16歳でセリエAにデビューしたにもかかわらず、成熟するのは遅かったんだ。22,3歳までは、自分が楽しむことしか考えていなかった。十分楽しんで、それからやっとチームのことを考えられるようになった。25歳から後は、チームの中で常に決定的な仕事ができるようになったし、ゴールの数も増えた」 ――サンプが強くなるまでの間、ビッグクラブに移籍したいと思ったことはありませんでしたか? 「もちろん何度もあったよ。でも僕はマントヴァーニ会長とすごく強い結びつきを持っていたし、サンプドリアというクラブにも愛着があった。本気で移籍したいと思ったことは、少なくとも最初の時期にはなかったね」 ――サンプは、カップウィナーズカップ、スクデット、そしてチャンピオンズカップ決勝と頂点を極めた後、90年代はじめから徐々に下降線をたどっていくことになりました。長年のパートナーだったヴィアッリがユヴェントスに移籍した92-93シーズンは、どんな気持ちで戦っていたのでしょう。 「サンプの黄金時代の頂点がチャンピオンズカップ決勝だったということは、誰もがわかっていた。それでも、その次のシーズン、ルカ(ヴィアッリ)が去って若手が何人か入ってきて、また新しいサイクルをスタートすることになった時、状況を受け入れるのは簡単じゃなかったよ。でも僕にとってサンプはすべてだったから、その時は移籍は考えなかった。ただ、このシーズンがパッとしない成績で終わって、それでもチームを補強してもらえなかったら、その時はサンプを去らなければならないとは思っていたな。でも会長はグーリット、プラット、ユーゴヴィッチといった選手を買ってくれて、翌年は素晴らしいシーズン(3位)になったんだ」 ――パオロ・マントヴァーニ会長が93年に亡くなってからもさらに3シーズン、他のクラブからのオファーがたくさんあったにもかかわらず、サンプに残ることになりました。踏みとどまった理由はどこにあったのでしょう? 「出て行こうと思えば出て行くことはいつでもできた。でもサンプを離れる気にはならなかったんだ。長年プレーしてきた愛着のあるクラブだからね。最終的に出たのも、マントヴァーニ(パオロの死後会長を継いだ息子のエンリコ)との関係が壊れてしまったことが理由だった。それがなければとどまっていたかもしれない」 ――90年代の半ばは、あなたにとって成熟期といえる時代だったと思います。毎年2ケタゴールを決め、グーリットやキエーザ、モンテッラにも山ほどのゴールを決めさせた。 「30歳前後というのは、肉体的な問題さえなければ、フットボーラーとしてはピークだからね。偉大なストライカーと一緒にプレーすることを十分楽しんだ、充実した時期だった よ」 ――そのピークが、サンプにとって幸福とはいえない衰退期に重なってしまったのは、ちょっと残念でした。 「そうだね。でもチームとしての結果は以前ほど残せなかったけれど、サッカーを楽しんだという点では充実していたことに変わりないからね。一番大事なのは楽しむことだから」 ――今はこうしてインテルの監督を務めているわけですが、現役時代にもインテルに来るチャンスは何度もありました。95年の冬には、クラブ同士が合意して移籍が決まったと報道されたことすらありました。結局移籍しなかったのはどうしてだったのでしょう? 「サンプへの愛着を捨て切れなかったからだよ」 ――新しい環境に飛び込むことへの怖れはありませんでしたか? 「もしそんなものを持っていたら、32歳でラツィオに移籍しようとは思わなかっただろうね」 ――ラツィオに移籍した時にも、インテルに来る可能性がありました。最終的にラツィオを選んだのは? 「もう一度スクデットを勝ち取るために戦いたかったんだ。インテルもそのポテンシャルを持っていたし、ラツィオよりも勝てる可能性は大きかったかもしれない。でもインテルは、いざ話をまとめようという時に、動きが鈍くて態度が煮え切らなかった。ラツィオは、(サンプ時代に5シーズンを共に送った)エリクソン監督が誘ってくれたこともあったし、勝つための野心的なプロジェクトを持っていた。さっき言った通り、野心的なプロジェクトに弱いんでね」 ――ジェノヴァで15年間過ごした後、キャリア最後の3年間をローマで過ごすことになりました。サンプドリアで王様のように過ごしてきたあなたが、ラツィオという新しい環境に馴染むのは、簡単なことじゃなかったように思えますが。 「ああ。実際馴染むまでには多少時間がかかったね。当初ラツィオの連中は、マンチーニももう32歳だし、どうせローマで優雅な年金生活でも送るつもりなんだろうと思っていた。ところがこっちはフィジカル的にもまだまだいけてたし、経験も積んでフットボーラーとして最高の時期にあったからね。ローマとジェノヴァじゃ環境もメンタリティも随分違うし、最初は多少の摩擦もあった。でも最終的には、たくさんのタイトルを取って充実した3年間を送ることができた。いい選択をしたと思ってるよ」 ――最後の2シーズンは、中盤でプレーしたり、左サイドでプレーしたりしました。特に引退のシーズンはベンチに座ることも多かった。 「確かにシーズンの最初の方は、あまり出る機会がなかった。でもスヴェン(ゴラン・エリクソン監督)もスクデットを勝ちたかったから、最後には僕を使わないわけにはいかなかった(笑)。最後の6試合には全部出て、その6試合に全勝してラツィオはスクデットを勝ち取ったってわけ」 ――どのように引退を決断したのでしょう? 「20年もプレーしてきて、ちょっと疲れていたんだ。肉体的にはまだ十分やれたけど、精神的に疲れてきていた。今振り返ると、あと1年続けていれば良かった、ヴァカンスに行って気持ちをリフレッシュするだけで良かったのに、とも思うけどね」 ――早く止め過ぎたと後悔している? 「ある面ではね。でも、すぐにエリクソンの下で助監督になって、同じシーズンにフィオレンティーナで監督としてのキャリアをスタートすることができたから、いいタイミングで止めたともいえるわけで。今はあれでよかったと思ってるよ」 ――じゃあ、DVDに収められたゴールを一緒に見ていきましょう。98-99シーズンのダービーでのゴールから。 「このダービー、試合開始6分で10人になったにもかかわらず、最後は3-1で勝ったんだ。これは2-1のゴールだ。ハーフウェイラインよりも手前からスタートを切って、パスを受けたそのままの勢いでゴール前まで持ち込んだ。中に切れ込んだ時のライン取りがポイントだね」 ――次が、パルマ戦の有名なヒールキックです。 「これはゴールになったから騒がれたけど、ヒールキック自体は僕にとっては珍しいことじゃない。インサイドよりもヒールを使う方が多いプレーヤーだったからね(笑)。これは確かにきれいに決まったけど、ま、普通だな」 ――キャリアの中でも一番美しいゴールのひとつだと言われてますけど。 「それはそうだけどね。でもこれ以外にも何度かヒールで決めてるし。これはCKからでボールも速かったし、ニアポストにフゼールが立っていたにもかかわらず届かないところに入ったから、運も良かった。シニーサ(ミハイロヴィッチ)とは長いこと一緒にやってきて、ああいうボールを蹴ってくれるのは知っていたから、僕は合わせるだけでよかったんだ。そういう意味ではすごく難易度の高いゴールってわけじゃない。この次のボレーシュートの方が、ずっと難しいゴールだよ。これは間違いなくベスト3に入るね。サンプがスクデットを取ったシーズン、マラドーナのナポリとの試合だ。」 ――長い距離を走り込んでそのまま右足でボレーを叩き込んだ。 「こういう後から来る長いクロスは、普通だったら一旦トラップするか、ボレーで合わせるにしても左で合わせるんだけど、僕はどうしてか右で蹴ろうと思ったんだ。時々こういう風に、わざと難しいことを試したくなるんだな。もちろんよく失敗もしたけれど、うまく行くとこういう風に素晴らしいゴールが生まれる」 ――ヘディングでのゴールもあります(#20)。 「ヘディングは得意技ってわけじゃなかったけど、タイミングの感覚は良かったから、ニアポストに走り込んでけっこうゴールを決めたよ。これは違うけど、ミハイロヴィッチがほとんどのCKやFKを蹴っていて、どこにどういうボールが来るかはわかっていたから、それに合わせてニアから頭で“すらす”形でのゴールが多かった」 ――フリーキックは珍しいですね(#15)。 「あまり蹴らなかったからね。ミハイロヴィッチが来てからは蹴りたくても蹴らせてもらえなくなったし」 ――サンプ時代も含めて、ローマ戦のゴールが多く収録されていますが、偶然でしょうか。 「いや、オリンピコでのローマ戦では、いつもゴールを決めてたからね。なぜか知らないけどすごく相性が良かった。このゴール(#10)を決めた時には、アウェーにもかかわらずオリンピコ中の観衆から拍手をもらったんだ。あのスタジアムではいつも気分よくプレーできた。それでインテルじゃなくラツィオを選んだというわけじゃないけどね」 ――ここに収められているゴールはボレーシュートがやたら多いんですが……。 「止めてから蹴るのは簡単過ぎてつまんないからね。それにボレーの方がフリーで打てる確率が高い。難しいけどちゃんと当たればゴールになりやすいだろ?」 ――ボレーに限らず、マークを外してフリーで打っている場面が非常に多いですよね。 「僕はマークを外す動きが得意だった。今の若いストライカーはあまりうまくできないけどね。パスをもらってからドリブルで相手をかわすよりも、パスを受ける前の動きでフリーになる方が、ずっとシュートにつながる場面が作りやすいんだ」 ――カウンターのゴールが多いのも、マークを外す動きがいいからですよね。 「僕は足も速かったんだ。カウンターというのは、傍目で見るほど簡単じゃない。特に単独で抜け出す場合は、ディフェンダーからタイミングを盗んでスタートを切り、飛んでくるパスの軌道とゴールの位置を読んだコース取りをしないと、DFを振り切ってGKと1対1になるところまで行かないからね」 ――一番印象に残っているゴール、思い出深いゴールを教えて下さい。 「たくさん決めたから全部は覚えていないけど、パルマ戦とダービーでの2つのヒールキックは、こうやって見ると確かに華麗だね(笑)。最初の方で見たナポリでのゴール(G3)もそうだけど。でもひとつ挙げるとすると、最後から2番目のアンコーナ戦のゴール(#2)かな。これはDFに引っ張られて転んで、明らかにPKになるファウルだったんだけど、そのままの体勢から右のアウトで合わせたんだ。あり得ないだろ?それに、ちょうどこの日、92年9月13日に次男のアンドレアが生まれたんだ。その意味でも記念すべきゴールだね」■ (2006年11月13日/初出:『サッカーベストシーン8 THE GOAL!』コスミック出版) Posted at 05:30 午後 月 - 6月 2, 2008イタリアクラブ探訪3:ボローニャ(2001.02)アーカイヴ#84。セリエAはとっくにシーズンを終え、メジャーな世界はすっかりヨーロッパ選手権モードに入っていますが、22チームで戦うセリエBはこの週末まで続いていました。昨日の最終節では、先日取り上げたキエーヴォに続き名門ボローニャがセリエA昇格を決めています。3つある昇格枠の残りひとつは3〜6位の4チームによるプレーオフで争われることになります。レッチェとピサ、アルビノレッフェとブレシアが6月4日と8日にH&Aで戦い、その勝者が11日、15日にやはりH&Aで決勝というスケジュール。ユーロが始まってもまだ戦いは続くというわけです。 90年代半ばにセリエC1、セリエBで連続優勝を果たし、96/97シーズンにセリエA昇格。それから4年間の成績が7位、8位、9位、11位。過去2シーズンはUEFAカップに連続出場。クラブの財政規模(年間売上高)は600-700億リラで、“ビッグ7”に次ぎセリエA中位…。
これがどこかの小さな地方都市のクラブのプロフィールだったら、まさに理想的といえる内容だろう。しかし、人口40万人を誇るイタリアで最も豊かな都市のひとつに本拠地を置き、過去にスクデット7回を誇る屈指の名門クラブのものであるとなれば、話はちょっと違ってくる。 ボローニャFC1909。その“歴史と伝統”から言えば、ビッグ3に次ぐ“格”を誇るクラブのひとつである。セリエAの草創期・1930年代にはユヴェントス、インテルと並んで3強と呼ばれ、戦後も常に5-6位が指定席、63/64シーズンには“グランデ・インテル”とのプレーオフを制して7度目のスクデットも獲得するなど、80年代初頭までの成績は、トリノ、フィオレンティーナ、ローマ、ナポリといった「中堅クラブ」の間でも、誇るに値するものだった。 しかし、80年の八百長スキャンダルに何人かの選手(現レッジーナ監督のコロンバもそのひとり)が巻き込まれたのに続き、82年に経験したクラブ史上初めてのセリエB降格を契機にして、ボローニャはこれら同格のクラブより一足先に“没落貴族”への道を歩み始める。B落ちの翌シーズンにはそのままセリエC1へ急降下。その後すぐにBに復帰し、80年代の終わりに一度はセリエA復帰を果たしたものの、3シーズンでBに逆戻り。そしてセリエC1へ再度の降格が決まった93年には、クラブが破産し、裁判所の管理下で競売にかけられるという存続の危機に追い込まれた。 かつてはセリエAで最も層が厚かった「中堅クラブ」が、90年代に入って成長組と没落組に二分され、その結果ビッグクラブとプロヴィンチャーレへの“二極化”が進展したことは、前回ウディネーゼを取り上げたときにも見たとおり。しかし、没落組の中でも、セリエC1降格、そして破産という深刻な事態を経験したのは、ボローニャだけだ。 そのどん底から伝統あるクラブを救い出したのが、現在のオーナーであるジュゼッペ・ガッツォーニ・フラスカーラ会長。地元の名家の出身で、オックスフォードに留学してふたつの学位を取得したエリート実業家である。競売での「落札価格」はわずか85億リラ(当時のレートで約6億円)でしかなかったが、クラブはその何倍もの負債を抱えていた。 新オーナーの下でセリエC1からの再出発を図った93/94シーズン、セリエB昇格という大きな任務を委ねられたのは、当時、アリーゴ・サッキの影響を受けた若手監督グループの中でもとりわけ評価の高かったアルベルト・ザッケローニ(現ミラン)だった。しかし、開幕してみれば優勝を義務づけられたはずのチームは中位に低迷し、ザッケローニは12試合で解任、エドアルド・レーヤ(現ヴィチェンツァ)と交代するが、結局この年はセリエC1グループAで5位と、昇格を果たせずに終わる。 浮上が始まったのは、翌94/95シーズンからのことだ。チーム部門の総責任者であるスポーツディレクター(以下SDと略記)にガブリエーレ・オリアーリ(現インテルSD)が就任し、監督には「昇格のエキスパート」と呼ばれていたベテランのレンツォ・ウリヴィエーリ(現パルマ)が招聘された。現在も主力としてチームを支えるカルロ・ネルヴォ、クリスティアーノ・ドーニ(現アタランタ)などを擁していたこのボローニャは、セリエC1グループAを記録的な勢いで勝ち上がると(24勝9分1敗で81ポイントを叩き出し、2位に22ポイント差をつけてダントツの優勝)、続く95/96シーズンにも、フランチェスコ・アントニオーリ(現ローマ)、ミケーレ・パラマッティ(現ユヴェントス)、ステーファノ・トッリージ(現パルマ)などをメンバーに加え、混戦のセリエBを制して6シーズンぶりのセリエA昇格を見事に勝ち取る。 その後2シーズンの、ウリヴィエーリ率いるボローニャの健闘ぶりは、覚えている方も多いだろう。バーリからケネット・アンデション(現フェネルバーチェ)、ユーヴェからジャンカルロ・マロッキ(昨シーズン限りで引退)、インテルからダヴィデ・フォントラン(現カリアリ)など、百戦錬磨のベテランを補強して望んだA昇格1年目の96/97シーズンに、早くも7位に食い込む健闘を見せ、コッパ・イタリアでもベスト4に進出。ミランからロベルト・バッジョ(現ブレシア)という大目玉商品を手に入れた翌97/98シーズンは、序盤戦こそ下位を低迷するものの、バッジョがチームと噛み合うと共に勢いを取り戻して8位でシーズンを終え、ヨーロッパの舞台(UEFAカップ)への登竜門、インタートト・カップの出場権を確保する。このシーズンを最後にチームを去ったウリヴィエーリ監督の置きみやげだった。 それからさらに2年半を経たいま、セリエA中位に安定した地位を築くところまで持ち直した名門・ボローニャは、しかし、国際的な人気と注目度、そして1000億リラ単位の財政規模を誇る“ビッグクラブ”の輪に加わることはできずにいる。ボローニャのライバルといえば、伝統的には同規模の都市フィレンツェを背景に持つ宿敵フィオレンティーナの名前が挙がるのだろうが、現状ではむしろ、チームの成績からいっても、クラブの経営面から見ても、真の競争相手は前回取り上げたウディネーゼだろう。 そのウディネーゼは、時代の変化に敏感に反応し、大胆な“国際的青田買い戦略”にいち早く取り組んで、「プロヴィンチャーレ」から「新・中堅クラブ」へと成長しつつある。それに対して、旧・中堅クラブ勢の中でいまも“中堅”であり続けている唯一の存在である名門・ボローニャは、どのようなビジョンと戦略を持って21世紀に臨もうとしているのだろうか? ボローニャは、イタリア半島の付け根、交通の要所に位置する人口約40万人(フィレンツェとほぼ同じ)の中都市である。世界最古の大学を誇る学問と文化の都であるだけでなく、商工業も盛んで、イタリアで最も豊かで暮らしやすい都市としても知られている。 だが、スポーツという観点から見ると、ボローニャはイタリアでは特異な存在である。この都市で最も人気の高いスポーツは、カルチョではなくバスケットボール。というのも、ボローニャは、ヨーロッパ屈指の水準を誇るプロバスケットリーグ(セリエA1)で毎年スクデットを争う最強の2チーム、キンダー・ヴィルトゥスとPAf・フォルティトゥードが本拠地を置く、イタリアNo.1の“バスケット・シティ”なのだ。80年代から90年代前半にかけて、ボローニャFCがセリエB、Cに低迷する一方でバスケット人気が大きく高まったことで、「ボローニャを代表するスポーツはバスケット」というイメージ(と実体)が、市民の間にも定着する結果となった。ボローニャで町全体を巻き込んで盛り上がる“ダービー”といえば、ヴィルトゥス対フォルティトゥードのことなのだ。ボローニャFCは同じ都市の中に、市民の人気や注目度、そして観客動員を争う強力なライバルを抱えているというわけだ。都市の規模としてはまったく同じながら、誰もがフィオレンティーナの動向に一喜一憂するフィレンツェとは、市民にとってのカルチョの、そしてクラブの位置づけが大きく異なっているのである。事実、2年ほど前にイタリアの大手調査会社Abacusが推計した数字によれば、ボローニャのサポーター数は、町の人口とほとんど変わらない45万人。「全国区」といっていいフィオレンティーナ(100万人)の半分にも満たない「地方区」なのである。 さて、ボローニャFCのクラブハウスと練習場は、この都市のシンボルであるふたつの塔がそびえる街の中心部から車で15分ほど西に走った郊外、カステルデーボレ地区にある。今は、倉庫や工場などが並ぶ工業団地のはずれに位置しているが、門衛の老人によれば「かつてはただの田舎だったんだけどね」とのこと。芝のフルコート3面に囲まれたクラブハウスは、大幅な改装の真っ最中だったが、98年7月からクラブ運営の総責任者、ゼネラル・ディレクター(以下GD)を務めるオレステ・チンクイーニのオフィスは、すでに改装が終わって真新しいデスクが備えられていた。 「ボローニャは、スクデット7回という名門クラブであるにもかかわらず、セリエAのトップグループ、いわゆるビッグクラブには加われずにいます。彼らと我々の最も大きな違いは、資金力です。今の時代、その資金力を左右するのは、衛星有料TV局との個別契約から得る放映権料なのですが、ボローニャはこれが年間170億リラしかありません。セリエA下位のプロヴィンチャーレと変わらない額です。ミランやインテルの4分の1以下、ナポリやフィオレンティーナの3分の1以下なんですよ。放映権料を決めるのはペイ・パー・ビューで試合を見てくれるファンの数ですが、ボローニャの場合はバスケットとの競合が大きなマイナスに働いているのです。もちろん、大都市のビッグクラブのように、大金持ちのパトロンがついているわけでもありません。残念ながら、資金力の格差はチームが揃えられる戦力の格差でもあります。これは受け入れざるを得ない現実です。したがって、今の環境でわれわれが望めるのは、いわゆるビッグクラブのすぐ後ろ、わかりやすくいうと“順位表の左側”(上位9チーム/イタリアのTVでは通常、リーグ戦の順位表は左右9チームづつ2列に分けて表示される)を維持するところまでです。インタートト圏内、ということですね」 UEFAカップ圏内(セリエA6位以内)ではなくインタートト圏内(8位以内)というところが、ボローニャの置かれた微妙なポジションを象徴している。ヨーロッパを舞台に戦う国際的なメジャークラブと、国内リーグだけしか活躍の場がないマイナーな中小クラブを分ける線上に立っているのが、現在のボローニャなのだ。 セリエAに復帰して5シーズン目。このところ、ガッツォーニ会長の口からも、またグイドリン監督の口からも「ボローニャは中期的なプログラムに従って運営されている」という発言がよく聞かれる。これはもちろん、現在の地位を維持する基盤を固め、長期的にはさらに上を目指すためのものだろう。それでは、その基本となるクラブの経営戦略はどのようなものなのだろうか? 「TV放映権料やマーケティングから大きな収益を上げることが難しい以上、クラブの収入を高めるためには、選手をビッグクラブに売却して利益を得るしかありません。それに、ビッグクラブとの年俸の格差がこれだけ大きくなると、ビッグクラブからオファーを受けた選手を引き留めておくことは事実上不可能です。2倍、3倍の年俸を断念してボローニャに残る選手は誰もいませんからね。トッリージ(現パルマ)、昨シーズンローマに移籍した3人(アントニオーリ、マンゴーネ、リナルディ)、K.アンデション(現フェネルバーチェ)、パラマッティ(現ユヴェントス)、みんなそうして手放さざるを得なかった選手です。ビッグクラブとの資金力格差が縮まらない限り、この状況は変わらないでしょう。そうなると我々も、選手を育ててビッグクラブに売却することで利益を上げ、それを再投資しながら戦力を保ち続ける仕組みを構築する、という方向を目指さざるを得ません。そのためにチームの若返りを図り、若手の発掘と育成を進めて行く、というのが、我々が今取り組んでいるプログラムです」 チームの若返り/若手の発掘と育成/選手のビッグクラブへの売却。方向性としては、アタランタやウディネーゼといった“プロヴィンチャーレの優等生”が採っているそれと変わらない。しかしちょっと待ってほしい。ボローニャといえば、セリエAに復帰してから現在まで、どちらかといえば、ビッグクラブから獲得した経験豊富なベテランを中心としたチームづくりで戦ってきたクラブではなかっただろうか?少なくともこれまでのボローニャからは、そうしたプロヴィンチャーレ的な方向性を読みとることは難しいように見えるのだが…。 「私がフィオレンティーナからボローニャに来たのは、98年7月のことです。前任者のオリアーリがパルマに去った時、ガッツォーニ会長からオファーがきたのです。その時点ですでに、若返り、若手の発掘と育成を進めるという方向性で、会長も私も合意していました。ただ、98/99シーズンに関しては、前任者のオリアーリによってチームの顔ぶれがほとんど固まっており、マッツォーネ新監督の下でインタートト・カップがスタートしようとしていました。ですから、実際に新しい方向性に動き出したのは、その翌年、つまり昨シーズンからということになりますね」 事実、オリアーリが手がけた98/99シーズンのボローニャは、ベテランを重視するマッツォーネの思想が反映されたチームだった。補強も、ジュゼッペ・シニョーリ、ジョヴァンニ・ビーア、クラス・インゲソン(現レッチェ)といった即戦力が中心で、レギュラーの中で25歳以下の若手は、アレッサンドロ・リナルディ(ラヴェンナから獲得)とジョナサン・ビノット(開幕後にヴェローナから獲得)の2人だけ。 シーズンが開幕すると、クラブの経営事情も視野に入れてチームの世代交代を進めようとするガッツォーニ会長、チンクイーニGDと、ピッチの上での結果だけを追い求めベテランを重視して戦おうとするマッツォーネ監督との間には、すぐに摩擦が生まれた。このシーズンを通して、ガッツォーニ会長とマッツォーネ監督の間にまったく会話がなかったというのは有名な話だ。にもかかわらず、インタートト・カップを勝ち上がりUEFAカップに進出したチームは、セリエA、コッパ・イタリアを合わせ3つのコンペティションで、予想を上回る快進撃を見せつける。前線のK.アンデションを攻撃の基準点に、両サイドのビノット、フォントランがクロスを供給し、シニョーリがゴールを量産するというシンプルながら効果的なサッカーで、ボローニャはUEFAカップ、コッパ・イタリアともに準決勝進出を果たし、セリエAでも9位。インテルとのプレーオフも制して翌シーズンのUEFAカップ出場権(コッパ・イタリア枠)まで手に入れた。 しかし、おそらくセリエA復帰後最も実りの多かったこの98/99シーズンは、ボローニャにとっては色々な意味で“過渡期”にあたるシーズンでもあったようだ。C1からスタートしたウリヴィエーリ時代の4年間(94/95〜97/98シーズン)は、まずセリエAに復帰し定着することだけを目標に、がむしゃらに走る以外にはなかった。しかし、セリエAで安定した基盤を築き、将来的にはクラブの“歴史と伝統”にふさわしい地位を取り戻そうとすれば、目先のことだけを考えているわけにはいかない。何よりも、セリエAまで短期間で這い上がるための先行投資(とクラブが抱えていた負債)による累積赤字が無視できない規模にまで膨らんでおり、これ以上の赤字を積み重ねることは許されなかった。経営的にも、そしてその基盤となるチームづくりについても、明確なビジョンと戦略に基づく、中・長期的なプログラムを固めるべき時期が来ていたのだ。これまでの流れの延長上で目先の結果を追い求めながら、将来を見据えた新たなプログラムもスタートさせる。ふたつのコンセプトが、時には錯綜しながらオーバーラップした1年だったというわけだ。 「確かにマッツォーネとは、彼の求めた選手をクラブが獲得しなかったことなどで、多少の摩擦がありました。しかし彼の監督としての仕事は評価と尊敬に値するものでしたし、我々はそれに心から感謝しています。ただ次のシーズンに関しては、新しいプログラムに基づいたチーム作りに取り組むために、彼の続投は諦めざるを得ませんでした」 チンクイーニの立場からはこうしたソフトな言い方になるが、マッツォーネにとっては、このシーズンを通じてクラブから受けた扱いは我慢できないものだったようだ。シーズン最終戦となったインテルとのプレーオフを制した直後、マスコミにありったけの不満をぶつけた場面は、今も多くの人々の記憶に残っている。いずれにせよ、クラブとしては、向かうべき方向はすでに明確になっていた。あとは、“目先の結果”と“将来への投資”のバランスをいかに取っていくか、ということだけが問題だった。 事実、昨シーズンのボローニャは、守備陣をブロック単位(GKアントニオーリ、DKリナルディ、マンゴーネ)でローマに譲り渡したこともあり、ジャンルカ・パリウカ(インテル)、ジュリオ・ファルコーネ(フィオレンティーナ)といったベテランも補強したものの、その一方でニコラ・ヴェントラ(インテル/共同保有)、ピエール・ウォメ(ローマ)を獲得するなど、控えめながらも<チームの若返り/若手の発掘と育成/選手のビッグクラブへの売却>という路線の第一歩を踏み出していた。 そして、ガッツォーニとチンクイーニが選んだ次期監督は、ウリヴィエーリの下で4年間ヘッドコーチ(兼GKコーチ)を務め、前年はプリマヴェーラ(18歳以下のユースチーム)を指揮していたセルジョ・ブーゾ。その風貌から“キートン”の愛称を持ち、誰からも尊敬される真摯な性格とサッカーに関する博識で知られる研究家肌の監督は、しかし、開幕からわずか2ヶ月で更迭されることになる。 「私は基本的に、シーズン途中で監督を替えることには反対する立場です。しかし、この時だけは他の選択肢がありませんでした。ブーゾ自身が、ボローニャの監督というポストがもたらすプレッシャーに耐えられなかったのです。その理由はひとつではないでしょう。チームが彼についていかなかったとか、試合の内容が悪かったとかいう問題でないことだけは確かです。運が良かったのは、その時にグイドリンがフリーだったことです」 94/95シーズンからの4年間で、ヴィチェンツァをセリエBからカップウィナーズ・カップの準決勝まで引き上げ、98/99シーズンにもウディネーゼを率いて7位という上々の成績を残すなど、その手腕が高い評価を受けてきたフランチェスコ・グイドリンは、そのシーズン終了後に、クラブに無断でサラゴサ(スペイン)と接触したことで、オーナーのジャンパオロ・ポッツォの怒りを買って解任されたため、TV解説者として“浪人生活”を送っていたのだった。しかし、いくら有能なグイドリンとはいえ、歯車が狂ったチームをシーズン途中で引き受け、それを立て直すのは簡単ではない。シーズン半ばで何人かの選手(トンネット、ダル・カント、オルランドーニ)を手当てしながら戦ったものの、後半戦になって崩れ、結局インタートトにさえ手が届かない11位でシーズンを終えることになった。 マッツォーネからブーゾへチームを引き継ぐ時点でスタートしたはずだった“新しいプログラム”も、監督がグイドリンに交代したことで、少なくともチームづくりに関しては、改めて見直しをせざるを得なかった。その意味では、ガッツォーニ会長、チンクイーニGD、グイドリン監督の3人が、中期的な視点に立って構想を描き、それに基づいてチーム作りが進められた今シーズンが、ボローニャにとって真の意味でのリスタート初年度ということになる。 「私もグイドリンも、2003年6月まで契約があります。それまでの3シーズン、チームの戦力とクラブの財政のバランスをより高いレベルで取りながら、長期的な発展の基盤を築くことが我々の目的です。まず最初に取り組んだのは、チームの平均年齢を大幅に引き下げることでした。昨シーズンは30歳を大きく越えていましたが、今年はそこから5歳下がって26歳台になっています。補強する選手を選ぶ基準も大きく見直しました。もう、ビッグクラブから選手を取ることはしません。ビッグクラブが放出する選手は、通用しなかった若手・中堅か、役目を終えたベテランかのどちらかです。こうした選手は、給料は高いけれどそれに見合うだけのモティベーションを失ってしまっている場合が大半なのです。これからボローニャが取るのは、意欲と野心がある有望な若手選手か、ボローニャのようなクラブでプレーすることが最終目標になるようなベテランのどちらかだけです。具体的な名前を挙げれば、前者がクルスやウォメ、ある意味ではロカテッリもそうです。後者はオリーヴェ、リマ、パダリーノなど。もちろん、財政的な視点から見れば、活躍した後ビッグクラブに売却できる若手でチームを構成できればいいのですが、チームの核になるベテラン選手はやはり必要です。これからの数年間で、さらに年齢を下げて行きたいと思っていますが…」 <チームの若返り/若手の発掘と育成/選手のビッグクラブへの売却>という路線を軌道に乗せるには、それなりの時間が必要である。セリエAで最も早くそれに取り組んだウディネーゼにしても、撒いた種が育ち、実りをもたらすようになったのはこの1〜2年のことだ。その点からみれば、ボローニャはウディネーゼに3〜4年遅れをとっているということにはならないか?そう訊ねると、チンクイーニの表情が一瞬険しくなった。 「ウディネーゼのことはあまり話したくありませんね。いち早くこの路線に取り組んだ彼らが、育てた選手を売りそこから得た利益を再投資するというサイクルに入っていることは確かです。まだ我々はそこまでは行っていません」 ボローニャのような名門がウディネーゼのような新興勢力の後を追っているというのは、カルチョの世界が変革の時代を迎えていることを象徴する事実だ。チンクイーニは続ける。 「しかし我々も、若手の発掘と育成には着実に取り組んでいるのです。育成部門からは、チプリアーニ(FW)、ガンベリーニ(DF)といった選手が育って来ましたし、アーセナルから17歳のニッコロ・ガッリ(DF・80年代にミラン、イタリア代表でGKを務めたジョヴァンニ・ガッリの息子。1年前にフィオレンティーナの育成部門からアーセナルが引き抜いた)を獲得したのもその一環です。そして、長期的な視点に立って、フランスのオーゼール、ナント、モナコといったクラブを模範にした寄宿舎制の育成センターを整備するというプロジェクトもスタートしようとしています。16〜17歳の才能ある選手を地元はもちろん、国際的なレベルで20〜25人スカウトし、学業もケアしながら時間をかけて育てようというものです。すでに今も、プリマヴェーラではフランス人が3人、スウェーデン人、ブラジル人が各2人、シエラ・レオネ人が1人、プレーしていますが、これをもっと徹底して進めようと考えています。そのために、この近くに育成部門専用のスポーツセンターを確保し、20〜30億リラかけて必要な施設を建設しているんですよ。これは時間がかかるプロジェクトですが、クラブの将来にとっては大きな意味を持つことになるでしょう」 セリエC1転落、破産というどん底から再出発して8年。ボローニャはやっと、セリエA中位に不安のない足場を固め、明確なヴィジョンと戦略の下で新たなステップを踏みだそうとしている。ただし、その到達点は、ビッグクラブの仲間入りをすることではなく、あくまで、常に“順位表の左側”に位置する“二番手グループの優等生”の地位を保ち続けることだ。その意味では、ウディネーゼと同様、ボローニャもまた「新・中堅クラブ」と定義することができるかもしれない。 最後につけ加えれば、ボローニャが近い将来、ビッグクラブの仲間入りを目指す方向に路線変更する可能性がないわけではない。昨年12月、これまでクラブの株式を100%保有していたガッツォーニ会長が、ミラノ郊外に本拠を置き投資顧問、保険業などを手がけるAREAグループを率いる53歳の実業家、フェデリコ・トラッリに株式の10%を譲渡し、役員としてクラブ経営陣に迎えたのだ。トラッリはボローニャ出身で、鉛管工から叩き上げて一代で財をなした敏腕経営者。もちろん、筋金入りのボローニャ・サポーターである。トラッリの資金力と経営手腕が、ボローニャの中・長期戦略にどんな影響を及ぼすかは、注目する必要があるだろう。ただし、カルチョの世界ほど「予定は未定」という言葉が如実に当てはまる世界は他にはない。トラッリの経営参加に期待するのは、シーズン終了後を待った方がよさそうだ。■ (2001年2月5日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』) Posted at 12:38 午前 日 - 6月 1, 2008セントラルMF出身が名監督の条件?(2004.12)アーカイヴ#83。名監督の多くはセントラルMF出身、という表題通りの話です。これは4年ほど前に書いたテキストですが、もちろん今もこの傾向に変化はありません。 まだ開幕から3ヶ月しか経っていないというのに、セリエAのスクデット争いは完全にユベントスとミランの一騎討ちになってしまった。明日土曜日は、その二強が今シーズン初めてぶつかり合う直接対決。クリスマス休みを前にした2004年最終節にふさわしい一戦である。 |